Rocco's log ~プログレ好きの警備員 trader with 社労士~

社労士試験、投機関連(大阪金先物が中心)その他諸々。このブログのトレードに関する箇所は、僕の勝手な相場観を書いています。価格も僕の予測に過ぎません。内容の正確さに最善は尽くしていますが、一切の責任を負うものではありません。売買は必ずご自分の判断で行って下さい。また、記事中で氏名の敬称は原則として省略しています。ご了承ください。

「イムジン河」物語(喜多 由祐 著  アルファベータブックス 刊)読了。

表紙のサブタイトルには”封印された歌の真実”という朱文字。

ちょっと物々しいな。それもそのはず。本書は1968年2月の、ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)第2弾シングル「イムジン河」の発売中止騒動及びその後のこの曲の数奇な運命について綴った作品だ。ちなみに、第1弾は「帰って来たヨッパライ」。この曲は誰でも知っているだろう。このコミカルソングと第2弾シングルとの落差は、今考えても凄い。この落差と、原曲そのものの良さとによって、まぁ、予定通り発売されていれば、大ヒット間違いなしだったろうな。

本書は「1騒動、2誕生、3復活、4希望」の4部構成だ。順に見て行こう。

1では、作者不詳の朝鮮民謡、と言う触れ込みで(P22)発売される予定だったが、朝鮮総連からの物言い(作者もはっきりしているし、原曲の歌詞も無断で変えた)を受けてレコード会社(東芝音楽工業)があっさりと発売中止を決めてしまったことが書かれている。

2では、この曲の出自と、何故この曲がフォークルによって歌われるようになったのか、その辺りの顛末を書いている。「イムジン河」は1957年にソプラノ独唱曲「リムジン(臨津)江(ガン)」として作られた(P60)。作詞作曲者はともに南の出身で、戦後、北朝鮮に渡った。特に作詞者(パク・セヨン)は、北朝鮮の国家の作詞者でもあることは、この本を読んで初めて知った。本書には原曲の歌詞の直訳も載っている(P62)が、これを読むと「故郷南の地 行きたくても行けず」とある。普通、北朝鮮でこんな詩を書いたら、作者は南のスパイ呼ばわりされ、政治犯収容所送りになるのではないか、と言うようなことを著者も書いている(P68)が、パクはそうならなかった。やはり、国家を作詞した重要人物だからであろうか(P69~70)。あるいはこの曲が持つ力のなせる業か。

この曲をフォークルに伝えたのは、日本語詞を書いた松山猛だ。1960年、中2だった松山は、サッカーの親善試合を申し込みに京都朝鮮学校に行くが、このときにどこかの教室から合唱部の女性コーラスが聴こえてきたという(P80)。まさに運命的な出会いだな。フォークルの結成は1965年8月、加藤和彦がファッション誌「メンズクラブ」にメンバー募集広告を出したのが始まりだ(P86)。加藤の呼びかけに応じた者の中に、きたやまおさむがいた。松山ときたやまは、高校時代からの友人。松山はフォークルのメンバーではなかったが、メンバーの友人として関係を深めていく。「イムジン河」を勧めたのも、この流れの中でだったようだ。

3では、長らく封印されてきたこの曲の復活について書かれる。2000年6月の歴史的な南北首脳会談後の”雪解けムード”の中で、金正日が、キム・ヨンジャなどの韓国の人気歌手の訪朝公演を要請し、その公演の中で「リムジン江」が歌われたのだ。この流れに実務面で深くかかわっていたのが、リ・チョルウと言う人物。フォークルの「イムジン河」発売中止騒動のときに朝鮮総連側で交渉役の一人だった人物だ(P120)。そしてこの流れが様々な方向に広がっていく。

キム・ヨンジャの公演は、テレビで北朝鮮全土に放送された。それを見て、強い望郷の念に駆られたのが、当時、拉致被害者として北朝鮮にいた蓮池薫だった(P140)。自著『半島へ、ふたたび』で「(キム・ヨンジャの歌う「イムジン河」には)強く胸を打たれ、目頭を熱くした」と書いている。

もう一つ、雪解けムードは日本にも及んだ。2001年暮れの紅白歌合戦で、キム・ヨンジャが「リムジン江」を熱唱したのだ。選曲は局側の要望だった(P142)。これが突破口になったのだろう。翌2002年には、34年ぶりにフォークルのバージョンがCD発売された。34年前の総連の要求通り、作詞作曲者名が入れられ、日本語詞・松山猛、補作曲・加藤和彦ともクレジットされている。当時名古屋にいた僕は、タワレコに買いに行ったが見つけられず、そのうちに忘れてしまった。それが、昨年2月に山野楽器で偶然、フォークルのバージョンを見つけたので、購入した。やはり僕は、キム・ヨンジャの情感たっぷりに歌い上げるバージョンより、フォークルの方が好きだな。

ところで、キム・ヨンジャ公演に深くかかわったリ・チョルウは、作詞のパク・セヨンに比べて作曲者であるコ・ジョンファンが本国で低いポストに甘んじ、生活も厳しい様子なのを気にかけていた(P157)。日朝間に国交もなく、著作権料の請求は難しいが「リムジン江」の作曲者として、コの訪日を金正日に頼むつもりでいたようだ。しかし、その直前にコは亡くなってしまう(P158)。

4で、リ・チョルウは、様々なバージョンの「イムジン河」「リムジン江」を1枚にまとめた「臨津江物語」というCDを2014年に出している話が出てくる。フォークルのバージョンを聴いて、原曲との相違点(本書では「誤り」と書いている)が3か所あるのを最初に指摘したのもリだ。しかし「この曲を広めてくれたのはフォークルだ。その「功」と、メロディー、リズム等3か所の誤り(「罪」)を比べたら「功」の方が大きい(P197)」とも語っている。

 

ベルリンの壁崩壊のときに歌われたのは、ジョンとヨーコの「イマジン」だった。「イムジン河」が南北朝鮮、そして在日コリアンや日本人によってともに歌われる日は来るのだろうか???