Rocco's log ~プログレ好きの警備員 trader with 社労士~

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『ある遺言のゆくえ 死刑囚永山則夫がのこしたもの』(永山子ども基金編 東京シューレ出版)読了。

本書は題名が示す通り、永山の遺言と、そこから広がった反貧困運動の広がりを、関係者が綴ったものだ。

永山の死刑は1997年8月1日に執行された(享年48)。より正確には、永山の絶命は同日午前10時39分である。本書が素晴らしいのは、永山の2審で無期判決を勝ち取った弁護団の一人、大谷恭子弁護士が、一般の読者にも分かり易く「注釈付き」で、彼の遺言について一章を割いている点だ。それによると、大谷弁護士は、永山を遺体のまま引き取りたかったが、時間的な行き違いで、遺体は既に荼毘に付されていた(P25)。永山は生前、(自分の死刑執行に対し)全力で抵抗する旨の意思を表明している。弁護士との接見でも「どうしたら処刑台の上で抗い続けることができるか」を語っている。大谷は永山の執行直前の様子を遺体によって確認したかったのだろう。「遺体を引き取るからそのままにしておいて欲しい」との電話を大谷が小菅の拘置所に入れたのが2日午後2時。しかしその時にはすでに荼毘に付した後だった、らしい。大谷は「電話は本当に間に合わなかったのか」訝しがるが、本当のところはわからない。このような「?」が本書にはいくつか出てくる。

次の「?」は、遺書をめぐる状況だ(P26~)。遺体の引き取りに失敗した大谷らは、8月4日、遺骨と遺品の引き取りに行ったが、ここで死刑執行に立ち会ったという職員から、永山の遺言を聞かされる。その概略は以下だ。

1 遺品の処理は遠藤弁護士(弁護団の中心人物)に任せる。

2 印税は~世界の貧しい子、特にペルーの貧しい子供たちのために使うこと。

3 「大論理学」は中国大使館に届け、中国の研究者に渡す。

4 遺体の処理は東京拘置所に任せる。

そもそも、この時永山は既に文筆家で、遺言を残そうと思えば、文書で残せるはずであった。彼はなぜ遺言を書き残さなかったのか。大谷はこの辺の手掛かりが欲しかったのだろう。これ(遺書)を残したときの永山の様子を聞いている。これに対し、職員は「執行は厳粛に行われた」と答えるのみだったという(P27)。これが答えになっていないことは、誰が聞いても明らかだ。永山はなぜ書き残さなかったのか。書き残せなかったのか「?」

3つ目の「?」はよりハッキリしたものだ。永山が獄中で付けていた日記が、遺品の中に無いのである。1993年3月3日、永山は「日誌6冊、読書ノート15冊」の宅下げを東京拘置所許可申請し、不許可になっている。永山の死刑は1990年5月に確定しているので、この時期の日誌は彼の獄中生活でも重要な時期に当たる。大谷は「死刑囚の生きた記録とも言うべき日記が世に出ることを嫌う理由が何かあったのだろうか」と記している(P33~4)。

その後、1996年に監獄法が廃止されて「刑事施設及び受刑者の処遇に関する法律」が施行され、永山の時代よりは外部規制が緩和されたようだ(P93)。しかし、確定死刑囚については先の永山の日記の件のようにわからないことも多い。

ところで、上記遺言の2 には「ペルーの貧しい子供たち」とある。貧しい国は世界のそこここにある。にもかかわらず、何故ペルーなのか。1997年2月22日付朝日新聞夕刊社会面に「頑張る小さな働き者たち」として紹介されている「子ども労働銀行」の記事(P62~3  スイス、ベルギーなどからの寄付金を原資として子供たちに融資し、自立を促す制度)を読んだことが直接の原因ではないか、と大谷は推察している。永山は9歳から新聞配達を始め、中学卒業後に集団就職で上京と、社会の最下層で働く少年時代を送った。児童労働を規制する強い流れがある中、永山はおそらく自身の体験から、安全で搾取されない労働(P64)の必要性を認識していたはずだ。永山のそのような指向性が、この時の朝日の記事で固まったのだ。大谷はそう考えたのだと思う。

永山の印税は、ペルーの働く子供たちの自主組織(ナソップ「ペルーの働く子供・若者の全国運動」)に送られ、永山が求め続けた仲間意識(連帯意識)を育てるための学習の場が現実のものとなった。そして、送金活動も終わりかけた2002年、東京シューレがソナップの若者4人を招聘し、交流を持つことになった。その時の記者会見の様子が印象的に書かれている。「永山の犯した罪について、どう思っているのか」という質問に対し「永山は確かに罪を犯した。しかしそれは、私たちのように一緒に考えてくれる人、一緒に学べる場を持っていなかったからではないか。もし彼が罪を犯した時期に、私たちがいま行っているような運動に出会っていたら、おそらく罪は犯していなかったのではないか」とペルーの若者は答えた。別の若者は「社会が我々を作り上げている以上、これは永山だけの罪ではなく、日本という社会構造の中で生じたことであって、社会の責任でもあると思う」(P79~81)

罪を犯した個人への厳罰化が進む我が国に対しては、ある意味耳の痛い指摘である。

「我々は永山に感謝している。しかし、我々は永山にはならない」。彼らはこう言いたかったのだと思う。

他にも「第2章 東京シューレ ナソップ訪問記」や「第4章 永山則夫の歩いた道・遺した道」(死刑執行前後にまたがる詳細な年譜)など、興味深い記事がある。