Rocco's log ~プログレ好きの警備員 trader with 社労士~

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『葬式消滅』(島田裕巳 著 G.B.刊)読了

「お墓も戒名もいらない」と言う副題付き。著者の島田は宗教学者だが、いわゆる守旧的な考え方の人ではなく、時代の変化を冷静に分析して論評を加えるタイプのようで、前著『葬式は、いらない』(幻冬舎)出版後には仏教界等からかなりの批判を受け、僧侶も出席したシンポジウムの席で、つるし上げをくったこともあるようだ(P40)。これを読んで、この人は信用できる、と思ったね。

僕が政治屋や宗教屋を嫌うことは、本欄を継続して読んでいただいている人は既にお分かりのことと思う。その中で本書は、僕の宗教屋嫌いに、理論的な柱を与えてくれるような存在だ。と言うのは、宗教学者である著者は、僕のような、自分の経験のみによって判断するのではなく、宗教各派の歴史的な流れを丁寧に書き、その上で、葬式そのものの消滅に向かう現在の流れを、必然的なものとして書いているからだ。

 

例えば戒名。寺のビジネスとして必要不可欠な戒名だが、実はこれは日本にだけしかないものだ(P115)。P56以降に明治5年4月25日付の太政官布告133が載っているが、その内容は「今より僧侶の肉食、妻帯、蓄髪は勝手たるべきこと(後略)」とした。このうち、肉食と妻帯は一挙に広まった、とある。つまり、それまで檀家は住職一人の生活を支えれば良かったのだが、妻帯を認めたことによって、住職一家の生活を支えなければならなくなった。P109~111に、宗教学者山折哲雄と作家で僧侶の寺内大吉の対談が収録されている(朝日新聞1997年6月21日=一部=)。ここは面白いよ。戒名料は布施である、と言う建前よりも、寺内のように、寺を維持するには金が必要、と率直に言った方が分かり易いのだがな。この戒名料が、バブル期に一気に高騰して社会問題になるわけだが、その遠因は先の太政官布告にある、と著者は言っている(P57)。

 

7章(P124~)では、多死社会の到来により、亡くなったことが伝わりにくくなった、という考察を著者は進め、8章(P140~)で「家族葬から家庭葬へ」と、葬儀というものが、その規模、形態などの面において縮小の一途をたどっている現実が、イオンによる葬式請負業への参入なども絡めて書かれている。イオンについて著者は、論評抜きで現象だけを記述しているような印象だが(P143~4)、批判的な書き方ではない。それにしても驚くのは、イオンの参入はそう昔のことではないと思うのだが、HPを見ると絶えず葬儀プランが、縮小方向で見直されている点だ。

 

9章(P158~)では、遺骨を引き取らない葬儀として著者が「0葬」と名付けたものが紹介される。この考え方は著者がNPO法人「葬送の自由をすすめる会」(散骨を「自然葬」として可能にした団体(P169))の会長だった時の発想のようだ。自然葬なら墓を建てる必要もない。また、この「墓を造らない」と言う流れの中で、「納骨堂」に遺骨を納めて供養する、という最近の大きな流れが紹介されている。これなら、墓を建てるより、はるかに費用が掛からない(P171)。こういう流れが最近の「墓じまい」に繋がっているのだろうか、というのが著者の考察のようだ(P173)。ただ、納骨堂については、本書では触れていないが、札幌市の業者のような問題が顕在化し、今後、規制がかかって来るかも知れないな。

 

本書の最後近くになって、著者はこれからの葬式について予想している(P187)。家庭葬(しかも参列者は多くても10人程度)が中心になり、終わったら火葬場に直行する「直葬」で十分、ということになるのでは、ということだ。散骨するにしても、火葬する必要はあるわけだしな。総括として著者は、葬儀を「難しく考える必要は亡くなった」。「葬儀をカジュアルなもの、気軽なものとして考える」ということを基本にしても良いのではないか(P200)、と読者に問いかけて終る。

様々な意見はあろうが、自分としては大筋として納得して読めた。同時に、自分の葬儀はどうしようか、などと考えちゃったよ。