Rocco's log ~プログレ好きの警備員 trader with 社労士~

社労士試験、投機関連(大阪金先物が中心)その他諸々。このブログのトレードに関する箇所は、僕の勝手な相場観を書いています。価格も僕の予測に過ぎません。内容の正確さに最善は尽くしていますが、一切の責任を負うものではありません。売買は必ずご自分の判断で行って下さい。また、記事中で氏名の敬称は原則として省略しています。ご了承ください。

「定年退職後の働き方を考える」という、行政主催のセミナーに行ってきた。

僕のサラリーマン経験は10数年だが、年齢は還暦前後で、ほぼ同年代の人が集まる、ということで、どんな感じなのか興味があった。

プログラムは大きく分けて3部構成。

1 仕事とライフプラン・マネープラン

2 仕事と健康プラン

3 就職活動とキャリアプラン

詳しい感想を書く前に、まずタイトルが気になった。定年退職後の「働き方」だと?

数十年(人によっては半世紀近く)働き続けてきて、やっと定年を迎え、老後は悠々自適、じゃなかったの???(もちろん、皮肉である)

僕のようにフリーの立場で30年近くやって来たものにとっては、安定的な老後など望むべくもないことはわかっている。だから色々と抗ってきたのだ(今でも)。しかし参加者の多くは、サラリーマン人生をずっと積み重ねてきた人たちだろう。そういう人が定年退職後も、その後の人生に(身体的なことはともかく、経済的に)不安を抱えて生きる、というのは本人の責任、で片づけることはできないのではないか。

それにしても日本人は従順だ(僕も日本人だが)。フランスあたりなら暴動が起きそうだがな。働いても豊かになれないのは、政策の失敗だろがっ、と。しかしセミナーの参加者は既に観念しているように見えた。配布された資料(定年前後以降、年ごとに予想収支を書き込むようになっている)を見ても、60歳までは正規雇用、それ以後65歳までは非正規となって給与は半分以上の減。65歳以降は週4日のマンション管理員などとして働き、給与は更に減。70歳以降75歳までは週3日に出勤を減らして給与更に更に減、という感じだ。資料を見ているだけで気が滅入って来た。

もちろんこれは一例にすぎず、人によって相当違ってくるだろうが。

講師は、上記1の担当は70歳を過ぎた社労士さん(つまり、この分野における参加者の先輩格)で、話す内容は大体わかるのだが、語尾がよく聴きとれない(マスクの影響もあるのだろう)。老齢年金の繰り下げ需給をしきりに勧めていた。老齢年金の原則は65歳支給だが、現在は70歳まで最大5年の繰下げが可能だ。これが本年4月の改正で、最大10年、つまり75歳までの繰下げが可能になる。しかし、この法改正によって繰下げ希望者が劇的に増えるとは僕にはとても思えない。先生によると、今でも繰下げ希望者は全体の1%だそうだ。経年で見ると徐々に増加してはいるようだが、自分の将来などわからないからな。今後も原則である65歳支給が主流になるのは変わらないのではなかろうか。

年金受給額のモデルケースも3パターン(「単身世帯」「妻が結婚前に勤務」「共働き」)紹介していただいたが、事例に出ている数字はもう少し現実的なものを使ってほしかったな。事例では男女(夫婦)ともに勤続41年、平均標準報酬月額31万円である。この数字だと65歳からの老齢厚生年金は121万円、老齢基礎年金は78万円。合計200万円弱だ。女性労働者の場合、この数字はちょっとハードルが高いのではないか。

他にもいろいろ話をしていただいたが、終わり近くになって「家計見直しのポイント」として「不足分を資産運用で埋める場合は、慎重に」という話があった。ま、今回直接的な言及こそなかったが、65歳以上のすべての世帯が厚労省のモデル年金と同額以上の老齢年金を受給できる訳ではない。不足分の穴埋めは、多くの場合、就労して収入を得る、という手段を選ぶ人が多いだろうが、中には株やFXで稼ぐ、という意気込みの人もいよう。しかし講師は「やめた方が良い」とはっきり言っていた。まぁ、慣れないことはしない方が良い。投資には様々な類型があり、危険度の度合いも一様ではない。だから投資商品をひとまとめにして○✖を決めつけるのは間違っている。しかし高齢になって、危険度の高い投資商品に手を出すのはリスクが高すぎる。万一大きな損失を被ると、再起不能になりかねないからな。この年齢層では、資産を増やすより、減らさないことが何より重要だ。

第2部は「仕事と健康プラン」ということで、女性のインストラクターから「健康維持のためのチェックリスト」「ロコモ予防に効果的な運動」などを紹介された。僕はこの分野の知識に乏しかったので、この時間が一番参考になったな。

第3部の「就職活動とキャリアプラン」が始まる前の休憩時間中、イブニング誌を読んでいた。なんか、背広を着たおっちゃんがこっちをずっと見てるなぁ、と思っていたのだが、その人が第3部の講師だった。内容的にはミドルエイジの転職セミナー的な話で、経験者としての採用を目指す場合は「ほぼ現役」とみられる必要がある。面白かったのは「高齢者のための応募書類、面接での留意点」の話で、人事としては「見た目」と「話す声」、この2つの要素が採否に大きく影響する、という話。僕もこの手の話を受講生に対してするときはいつも「第一印象が全てではない。しかし、一度定まってしまった印象を覆すことは、とても大変だ」という話をする。「見た目」や「話す声」という印象評価はわかりやすい。しかし、見た目は普通でも「噛めば噛むほど味が出るスルメのような人」もいる。この講師の話を聴いていて高齢者の採用で「見た目」や「話す声」が果たしてどれくらい有利なポイントとして作用するのだろうか、という疑問もわいた。話としてはちょっと直球すぎてステレオタイプだったな。話が悪かったと言う訳ではないが。

 

まる1日、7時間のセミナーだったが、参加者同士の交流の場があればもっと良かったな。この辺はコロナ禍の現況では仕方ないが。

 

 

 

『ある遺言のゆくえ 死刑囚永山則夫がのこしたもの』(永山子ども基金編 東京シューレ出版)読了。

本書は題名が示す通り、永山の遺言と、そこから広がった反貧困運動の広がりを、関係者が綴ったものだ。

永山の死刑は1997年8月1日に執行された(享年48)。より正確には、永山の絶命は同日午前10時39分である。本書が素晴らしいのは、永山の2審で無期判決を勝ち取った弁護団の一人、大谷恭子弁護士が、一般の読者にも分かり易く「注釈付き」で、彼の遺言について一章を割いている点だ。それによると、大谷弁護士は、永山を遺体のまま引き取りたかったが、時間的な行き違いで、遺体は既に荼毘に付されていた(P25)。永山は生前、(自分の死刑執行に対し)全力で抵抗する旨の意思を表明している。弁護士との接見でも「どうしたら処刑台の上で抗い続けることができるか」を語っている。大谷は永山の執行直前の様子を遺体によって確認したかったのだろう。「遺体を引き取るからそのままにしておいて欲しい」との電話を大谷が小菅の拘置所に入れたのが2日午後2時。しかしその時にはすでに荼毘に付した後だった、らしい。大谷は「電話は本当に間に合わなかったのか」訝しがるが、本当のところはわからない。このような「?」が本書にはいくつか出てくる。

次の「?」は、遺書をめぐる状況だ(P26~)。遺体の引き取りに失敗した大谷らは、8月4日、遺骨と遺品の引き取りに行ったが、ここで死刑執行に立ち会ったという職員から、永山の遺言を聞かされる。その概略は以下だ。

1 遺品の処理は遠藤弁護士(弁護団の中心人物)に任せる。

2 印税は~世界の貧しい子、特にペルーの貧しい子供たちのために使うこと。

3 「大論理学」は中国大使館に届け、中国の研究者に渡す。

4 遺体の処理は東京拘置所に任せる。

そもそも、この時永山は既に文筆家で、遺言を残そうと思えば、文書で残せるはずであった。彼はなぜ遺言を書き残さなかったのか。大谷はこの辺の手掛かりが欲しかったのだろう。これ(遺書)を残したときの永山の様子を聞いている。これに対し、職員は「執行は厳粛に行われた」と答えるのみだったという(P27)。これが答えになっていないことは、誰が聞いても明らかだ。永山はなぜ書き残さなかったのか。書き残せなかったのか「?」

3つ目の「?」はよりハッキリしたものだ。永山が獄中で付けていた日記が、遺品の中に無いのである。1993年3月3日、永山は「日誌6冊、読書ノート15冊」の宅下げを東京拘置所許可申請し、不許可になっている。永山の死刑は1990年5月に確定しているので、この時期の日誌は彼の獄中生活でも重要な時期に当たる。大谷は「死刑囚の生きた記録とも言うべき日記が世に出ることを嫌う理由が何かあったのだろうか」と記している(P33~4)。

その後、1996年に監獄法が廃止されて「刑事施設及び受刑者の処遇に関する法律」が施行され、永山の時代よりは外部規制が緩和されたようだ(P93)。しかし、確定死刑囚については先の永山の日記の件のようにわからないことも多い。

ところで、上記遺言の2 には「ペルーの貧しい子供たち」とある。貧しい国は世界のそこここにある。にもかかわらず、何故ペルーなのか。1997年2月22日付朝日新聞夕刊社会面に「頑張る小さな働き者たち」として紹介されている「子ども労働銀行」の記事(P62~3  スイス、ベルギーなどからの寄付金を原資として子供たちに融資し、自立を促す制度)を読んだことが直接の原因ではないか、と大谷は推察している。永山は9歳から新聞配達を始め、中学卒業後に集団就職で上京と、社会の最下層で働く少年時代を送った。児童労働を規制する強い流れがある中、永山はおそらく自身の体験から、安全で搾取されない労働(P64)の必要性を認識していたはずだ。永山のそのような指向性が、この時の朝日の記事で固まったのだ。大谷はそう考えたのだと思う。

永山の印税は、ペルーの働く子供たちの自主組織(ナソップ「ペルーの働く子供・若者の全国運動」)に送られ、永山が求め続けた仲間意識(連帯意識)を育てるための学習の場が現実のものとなった。そして、送金活動も終わりかけた2002年、東京シューレがソナップの若者4人を招聘し、交流を持つことになった。その時の記者会見の様子が印象的に書かれている。「永山の犯した罪について、どう思っているのか」という質問に対し「永山は確かに罪を犯した。しかしそれは、私たちのように一緒に考えてくれる人、一緒に学べる場を持っていなかったからではないか。もし彼が罪を犯した時期に、私たちがいま行っているような運動に出会っていたら、おそらく罪は犯していなかったのではないか」とペルーの若者は答えた。別の若者は「社会が我々を作り上げている以上、これは永山だけの罪ではなく、日本という社会構造の中で生じたことであって、社会の責任でもあると思う」(P79~81)

罪を犯した個人への厳罰化が進む我が国に対しては、ある意味耳の痛い指摘である。

「我々は永山に感謝している。しかし、我々は永山にはならない」。彼らはこう言いたかったのだと思う。

他にも「第2章 東京シューレ ナソップ訪問記」や「第4章 永山則夫の歩いた道・遺した道」(死刑執行前後にまたがる詳細な年譜)など、興味深い記事がある。

 

 

『自衛隊協力映画』(須藤遙子 著 大月書店 刊)読了。

数年前から読みたいと思っていた本。やっと読めた。

本書は、著者が2013年に、横浜市立大学に受理された博士論文を下敷きに、加筆修正したもの、と「あとがき」にあるように、元は学術論文である。

本書を読もうと思った動機は、『自衛隊協力映画(協力映画)』として分析の対象となっている作品(本書第Ⅱ部掲出)全32作の内、11作を観ている、ということだけだからではない。個人的に怪獣映画作中での自衛隊の協力が、平成ガメラシリーズの登場によって、それまでとはガラッと変わってしまったかのような印象を持っていたので、そのことを(怪獣映画全体の中で、時系列的に)確認できるかも知れない、と考えたのだ。そしてその考えは大方当たった。

本書第Ⅱ部第4章(『ゴジラ』シリーズの自衛隊)及び第5章(平成『ガメラ』の衝撃)を中心に、印象的な記述を紹介していきたい。

まず、自衛隊協力映画が平成ガメラ以後と前とで、何が変わったのか、であるが、本書ではそれを一言で表現している。それは「リアルな自衛隊」(P124)だ。平成ガメラの第1作『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年)では、福岡に上陸したガメラに対し、自衛隊は当初、何の攻撃もしなかった。「攻撃は⁉」の声に自衛官がこう語る。「武力行使が認められるのは、防衛出動の場合に限られています。その場合、相手による攻撃が行われなければ、こちらが攻撃することは許されない」(P127)。僕も劇場でこのセリフを初めて聞いたとき、新鮮な驚きと感動を覚えたことを、今でも忘れない。従来の怪獣映画では、怪獣に対峙する戦車(大体がミニチュアだ)がどこからともなく出てくるが、簡単に怪獣に踏みつぶされたりする。こういうのに慣れていた世代としては、本作での自衛隊の実写映像と、法律に裏打ちされたセリフは確かに衝撃的だった。しかし、衝撃を受けたのは、僕のような一般のファンばかりではなかった。

P116には「劇場で『ガメラ 大怪獣空中決戦』を観たあと、衝撃と悔しさでしばらく立ち上がれなかったという手塚は~」という記述がある。手塚とは、2002年公開の『ゴジラメカゴジラ』の監督、手塚昌明である。本作公開の時点では、平成ガメラシリーズ全3作は完結している。この3作の内、最高傑作に挙げるファンも多い『ガメラ2 レギオン襲来』(1996年)は自衛官が主役である。それもあってか、本作では女性自衛官を主人公に設定し、「機龍」という生体ロボットを操縦させ、オペレーターとしてゴジラと戦うのだ。

以上みてきたことは、本書記載のごく一部に過ぎない。しかしこれだけでも、自衛隊は「善」に加担する、法律に則った組織である、という点が、近年、さらに強調されていることがわかる。でも、何を「善」とみるかも時代によって変わるであろうし、法律も、改正や解釈の変更で、その役割が変わることもある。無批判な同調は怖い。自衛隊協力映画は、一般の劇映画としてストーリィを楽しむためのものではあるのだが、知らないうちに一定の傾向への賛同者になってしまう危険もはらむ。現在の映像技術や、自衛隊の細部にわたる「協力」は、そのようなことを容易にさせてしまう可能性もあるかも知れない。それほどまでに上手に協力している、と言うようには考えたくないが。

本書を読むとそんなことまで思ってしまうよ。

 

 

 

 

『聖<さとし>の青春』を観る。

9日のブログにもちょっと書いたが、NHK-BSで放送されたものだ。本作を観るのは今回で三度目。29歳で逝った悲運の天才棋士村山聖の生涯を描いたノンフィクション。僕は将棋はやらないが、存命なら本人は、羽生の好敵手としてもっともっと活躍できただろう、と思わせる。そういう意味では、早世した本人の無念さが伝わってくる作品ではある。しかし別の見方をすれば、短い生涯ではあったが、思う存分自分の好きなように生きた、とも言えるのではないかな。

印象的な場面は、羽生との対局に勝利した後、村山が羽生を誘って呑み屋で酒を酌み交わすシーン。将棋という世界の深淵を二人で見に行こう、と語り合う場面では、好敵手同士、という関係性の中で生きる者にしかわからない絆の深さを感じる。

映画では、その少し前に村山が羽生に「(死ぬ前に一度でいいから)女を抱いてみたい」と語るシーンがある。村山は自分の人生がそう長くないことをわかっていたのだろう。実際、タラ、レバの話にはなるが、村山に恋人や妻がいれば、おそらく彼の人生は変わったものになっていたかも知れない。だけどそれでは「僕らの思う村山」ではなくなってしまうだろうな。

映画の予告編で羽生本人が「(村山の生き方に接して)人生の価値は長さではない」というような意味の発言をしている。本編を観ると、この発言に深く納得するが、しかしそれでもなお、29年は短い、と思う。

好みは人それぞれ。だから僕は『東京物語』などごく一部の作品を除いて、映画作品を他人に勧めたりはしない。だから本作も人に勧めたりはしないが、観る価値があるか否か、と問われれば、十二分にその価値はある、と答えるだろうな。

 

大切な友人、Iさんを亡くしました。

9日の午前、共通の友人であるKさんから電話があって知りましたが、にわかには信じられなかった。

先月28日に倒れたとのこと。まだ52歳。この先色々とやりたいこともあったはずです。

Iさんと出会ったのは、僕が戸建不動産の営業所に勤務していたころなので、4、5年前になります。良い人でした、本当に。僕は営業マンが手掛ける物件をネット上に掲示するための入力を担当していました。僕の仕事がいつもたまっていたのは、僕の入力速度が遅いのが原因なのに、自分の依頼する物件が多いせいだと詫びてくるような人でした。

数年前にも、同業の友人逝去のことを書いた記憶がありますが、還暦前後を過ぎると、友人知人逝去の知らせに接する機会が、否応なしに、徐々に増えてきます。

労働安全衛生法で、労働者の定期検診が義務付けられていますが、健診間隔や健診項目を見て、必要に応じて自分でオプションを加えるなど、自己管理が重要になってきているような気がします。

しかし、Iさん。まったく、悲しくてやり切れません。

安らかに眠ってください。

 

2022年初頭の出来事 1

2022年になりましたね。書くのを忘れてました。

ここまででは、前回書いたように、本を1冊読了したほか、映画を2本観ました(いずれもTVですが)。

まず、『ビサイド・ボウイ ミック・ロンソンの軌跡』。ボウイ初期に、スパイダーズ・フロム・マースのギタリストとして活躍したロンソンのドキュメンタリー映画で、ボウイ自身がナレーションを担当している。本欄ではだいぶ前に「スターマン」のビデオを紹介したが、この作品でボウイの右でギターを弾いていた人物がロンソンその人です。実はロンソンについて、僕も良くは知らなかったが、本作を観てボウイがビッグネームになる初期の段階で、ロンソンが果たした役割を知ることができた。彼は単なるギタリストではなかった。曲のアレンジや作品のプロデュースを通じて、ボウイの音楽的成功に大きく貢献したことが、関係者の証言によってクローズアップされる。

例えば、リック・ウェイクマンが「火星の生活?」のピアノアレンジを解説するところ。ロンソンの非凡な才能が良くわかるように、ファツオリのピアノを弾いて曲を実演するシーンが印象的だった。

もう1本は9日にNHKBSで放送された『聖<さとし>の青春』だが、これについてはまた後日。

ところで本作『ビサイド・ボウイ』は「地上波初放送」として8日の晩にTVKで放送された。

話は全く変わるが、そのTVKでは、なんと『妖怪人間ベム』が日曜の夜に放送されている。不覚にも、僕はこれを最近知った(昨年9月から放送されているようだ)。この作品がどのくらい凄いか、というと、昔の作品は放送するときに「問題があったり、相応しくない表現がありますが、作品のオリジナリティを考慮し、そのまま放送しました」という意味の注釈が付くのが常だ。ところがこの作品は、そんな生易しいテロップでは収まらない表現が多かったようで、登場人物の発言が消去されたりしているのだ。それだけでも観る価値があると思わないか。何しろ、主人公たちの手足の指は3本しかない。こういう所の描写も、今の時代からすれば、障がい者差別などとして問題になる可能性もあるのではないかな。

最近では昔放送されたアニメを完全収録したDVDがシリーズで販売されることも多いが、本作と『巨人の星』は全巻揃えようと真剣に考えている。

しかし、そのことはまだ誰にも話せていない。

『65歳で月収4万円。 年金をもらいながらちょこっと稼ぐコツ』(阿部 絢子 著  KADOKAWA 刊)読了。

僕はこの本を、必要性があって読んだ。いつぞやの本欄で、僕は、60歳を過ぎての収入を、①年金収入、②投機・投資収入、③就労収入の3つに分ける、ということを書いた。この考え方は基本的に今も変わっていないが、③について、もう少し情報が欲しかったからだ。

著者は1945年生まれの生活評論家だ。評論家と言っても、消費生活アドバイザーとしての長年の経験や、豊富な海外ホームステイ歴を背景にした提言だけに、説得力がある。ややくどいのは、歳のせいかな。

本書のスタンスは、これから高齢者ワールドに入って行こうとする人が、既に入っている人を参考にして、より充実した生き方ができるように、と言う所にある。

このような観点から、第1章「働く60代に聞いてみた」では、今の仕事をどのようにして探したか、具体的に著者がアンケートをとって聞いている。更に、働くシニアの実例が、月収と年金受給月額とともに掲載されており、参考になる。この辺は、もう少しサンプル数が多ければ、もっと良いな。

第2章「シニア向きの『ちょっと働く』職業はさまざま」では、シニア向けの仕事をどこで探すのか、について。本書では「東京しごとセンター」という公的機関などが紹介されているが、民間のサイトでもシニア向けのものは探せば見つかるだろう。

第3章「働きたいと思ったときに まず考えたいこと」では、年金だけでは生活を賄えなかった著者の実体験が出てくる。このとき著者を救ったのは昔取ったが、使ったことは一度もなかった「薬剤師」の資格だったらしい。資格というのは、取っておけば、思いもよらぬ場面で役に立つことがある、ということか。また本章では、働くことが好きな人は、傍(ハタ)を楽(ラク)にできる人(P78)や、「念願は人格を決定す。継続は力なり」(長い間思い願うこと。これすなわち力となる)(P81)、「若い人に使われる覚悟を持つ(P85)」のような印象的な記述がある。僕も過去のパート勤務で何度か「若い人に使われ」たことがあるが、ここ数年の僕のパート勤務の経験では、すべての職場で、年長者である僕に一定の敬意をもって接していただけたので、とても感謝している。

(第4勝は略)

第5章「仕事はどうやって見つける?」では、著者は「還暦になったとき、今後の人生をどうすべきか、人生の棚卸も含めて、自己分析をしておくべき」(P110)と言う。これは必要なことだろう。その上で、仕事を見つけるための、様々な情報収集のためのヒントが書いてある。ハロワやシルバー人材センターに出向くといった「足を運ぶ」ことの重要性の指摘も当然だが、友人や知人と言った情報網の活用を力説している所は、いかにも活動的な女性であり続けてきた著者らしい。僕は友人などを介して仕事に就いたことは、学生アルバイトの時代から通算しても、一度もない。全部自分で見つけたが、僕のようなケースの方が多いのではなかろうか。

第6章「仕事を得るにもコツが要る」は、具体的な採用試験対策が書かれている。履歴書の書き方や面接のポイントも、通り一遍の内容ではなく、参考になる。ただ、人事を長くやっていたものの立場から言うと、考えすぎ、と思うような箇所もあるが、それは人それぞれだろう。

第7章「楽しく老いるために 楽しく働く!」では、健康長寿時代の長い老後を過ごすための、いくつかのキーワードが掲げられている。例えば、教養=今日の用事(きょうよう)と教育=今日行くところ(きょういく)(P176)。「人との会話(P181)」「仲間(P183)」など。

しかし、老いるのも楽じゃなさそうだ。